記録より記憶?加計学園問題の不思議

加計学園の問題が取りざたされる中で新たな文書や発言が次々と取り上げられて、新たな局面を迎えようとしています。
まあもともと加計学園問題は森友学園問題とは違って、根本的な問題はほぼないはずなので結構な茶番を繰り返しているというのが正しいのは世間のみなさんのご存知通りかと思います。

加戸前愛媛県知事の答弁によって、加計学園自体に問題があるわけではないことは周知の事実ですものね。

そういった答弁があったにも関わらずまだ問題視することや一部の人間たちによって加計学園がひいきによって選ばれたような誤解を世間に与えていることの方がよっぽど問題でしょう。

そういった今までの経緯や12年間のやりとりの話をないがしろにし、ただ単にここ数年間の記憶や記録、一時の取材による大したことない情報ばかりが出回ってしまっているといった状況が世間によくないイメージを持たせてしまっていますよね。

ただ、1点だけ報道を見ていて不思議な点を発見してしまいましたので、その点について本日は話そうと思います。

記録より記憶を重視するように見える不思議

私が報道を見ていて不思議だなと思うことの1つ、それは・・・

公的な文書に記録があるのに、それを信じない官僚たちの姿

私たちが普段話す内容をメモにとるのは記憶を記録にとどめるためです。一般的に会社において仕事をしていても議事録として会議の記録をとってまわす。という行為は日常茶飯事ですし、個人間で話したことを後でメールやLINEで送り直すといったこともするでしょう。

特に会社においては議事録に記載があるかないかで後々の仕事に影響を与えることも多いことから、議事録をとったら関係者間にまわし、認識齟齬がないか確認することも日常茶飯事だと思います。四月の今頃、新人の最初の仕事は議事録をとって承認を得ること。なんて人も多いのではないでしょうか?

そういった記録をまわすという理由の裏には人間は「言ったことやその場で決まったこと、場所や人数、参加者といった情報を忘れる傾向にある」という理由があります。

発言したことはもちろんのこと、その場にいた参加者ですら忘れることがありますので後から議事録を見返すと「あー、そうだった!!」と思うこともよくあります。

そういったことを考えると加計学園問題で言った、言ってない、会った、会ってないという話で国会で議論するのは水掛け論にしかならず、永遠に終わらない議論になるのです。

よって、重視すべきは記録の方で、公的な文書として記録がとられ、関係各社にまわされたものなのであれば信じるべきはむしろそちらでしょう。

今まで開示されてきた文書の数々。公的なものは?

加計学園問題においては様々な関係者が様々な発言をし、二転三転を繰り返しているため状況がよくわからないという人が多いのではないでしょうか?

それと同じぐらい文書や記録についてもたくさんの文書が出てくるため、よくわからないという人が多いようです。

そもそも議事録なのか個人のメモなのか?という観点で分けてみても、報道上はどちらともとれない文書であるものも含まれているため、必ずしも記録が残っているからといって全てが信頼できると判断していいものではないでしょう。

そして今まで見つかった文書に対しては国として公的文書には当たらない為、保管義務もないし見つかるのに時間がかかったといった趣旨の発言をしています

上記のようなことから文書には発見に時間がかかっているものの、過去には「総理のご意向」と記載の在った文部科学省のメモに対して「そのような発言はない」とか「総理のご意向」といった記録は事実に反するという意見を首相官邸や内閣府から発せられたことが記事にもなりました。

また「加計学園」の獣医学部新設をめぐり、平成27年4月13日という日付が書かれた『獣医師養成系大学の設置に係る内閣府の藤原次長と柳瀬首相秘書官との面談結果について』という表題の文書が愛媛県内で見つかった際にも内容に覚えがないようなことを言っています。

しかし、現在マスコミをにぎわせている愛媛県文書と農林水産省文書については公的な保管義務がない文書ではあるものの、当日の記録を県の職員や農水省の職員が記録したものであることから上記のような反論や意見は聞き受けられないというのが一般社会の通例のはずです。

国の最高機関である内閣府や首相官邸に公的にではないにしろ、送付されていたり関係各社にまわされていた文書。そういった意味で関係者には少なくとも目を通す時間があったはずですし、その際に上記のような記載が見つかったのであれば訂正を求めればいいだけのことだったはずです。

認識違いがあったのなら認識違いがあったその場で修正するのが文書をまわす意味ですし、それすらも出てきた今から否定するというのであれば文書の意味がありませんよね。

会社で働いている人も会議の議事録はその場でとって1日以内にまわすのがほとんどでしょうし、上司の確認や必要であれば押印をもらって関係者全員に送付して認識違いがないか確認するのが議事録の意味だと思います。
そしてそこで認識違いがないと判断されたのであれば、その文書は正式に認められたものですし、後から記載内容を変更しようと思ったら、正式な理由と上司の承認があってやっと変更が許されるものというのが通例です。
たとえ誤った内容であったとしても、一度承認が下りた文書の記載内容というのは変更するにはそれなりの理由と裏付けが必要なわけですよ。

そういった意味で記録に残っているのだから、その内容が正式でないとしないとおかしいですし、それが正式な事実として認められないなら国という機関は何を信じるのでしょうか?

何より、当時の3年とか5年とか前の1発言を今の今まで覚えている人なんて皆無です。いくら頭がよくても発言内容の一言一句を覚えているなんて人はよほどの天才か変人でしょう。(一部の記憶が完全定着する人は別ですが・・・)

上記のようなことからも記録された文書が見つかったのだから、ねつ造されたものでないのならば「中身は全面的に正式なものとして捉える」といった前提が覆ってしまったらそれこそ何を信じたらいいのかわかりません。
記録より記憶を信じるなんていうのはありえてはいけないことなのに、それがまかり通るというのはおかしな話です。

少し話がそれますが、12年という歳月をかけてやっとのことで獣医学部を愛媛県内に新設することができたことについては、加計学園ではなく愛媛県としての夢が叶った瞬間だったのだと思います。

私たちはともすればマスコミからの報道からの情報で「加計学園と国が繋がった結果、優遇されていたのではないか?」といった刷り込みを与えられている部分が強いですが、実際にはそんなことはなく「長い年月をかけた結果、ここまで来ることができたのは加計学園がはじめから関わり、粘り強く提案を続けてくれたから」ということなのでしょう。

正直12年もプロジェクトを続けると思うと、本当に継続できたことも奇跡と言わざるを得ないレベルで着地ができたプロジェクトなのだと思います。

本当の経緯を何の汲み取りもせず、「何か問題がある」といった風に雰囲気での議論と事実に基づかない答弁で時間を浪費するのは本当に生産性がないし時間と税金の無駄でしょう。また文書の記録も信じられないのであれば、国という機関は終わっているので今すぐ解散したほうがいいです。

まとめ

文書というのは本来正しく使われれば、後から見返したときに絶対的な力を持つものになります。
それを覆している国の答弁は世間一般から見た際にはありえない話ですし、よろしくない傾向でしょう。

問題点がはっきりとしないのなら時間と税金の無駄遣いもいいところなのでさっさと国会を終わらせてくれればいいです。

記憶と記録、決定事項としてどちらを信じるかは火を見るよりも明らかのため、記録に残っているものの真偽だけ確かめ、事実に基づいた判断をしてもらえればと思います。

また一般社会における文書の効力は計り知れないので、議事録をとったら関係者にまわすことは徹底してもらえればと思います。